しべりあげきじょう

ロシア国立ブリヤート歌劇場首席トランペット奏者  齋藤友亨のブログ (旧あうすどいちゅらんと)

しべりあげきじょう

ニジンスキーとディアギレフ 20世紀の芸術界を大きく変えた”バレエ・リュス”

移転しました。

20世紀には芸術の大きな転換期があり、音楽も美術大きく変化しました。

「バレエ・リュス」「セルゲイ・ディアギレフ」「ヴァーツラフ・ニジンスキー」はバレエ界にも音楽界にもとても大きいな影響を与えているのでご紹介します。

 

今コンサートなどでもよく演奏される「シェヘラザード」「ダフニスとクロエ」「火の鳥」「ぺトリューシュカ」などはバレエリュスのために作曲されていますし

ピカソが舞台、ココ・シャネルが衣装で関わっているのもバレエリュスです。

とんでもない時代ですね。そんなバレエリュスを大きく盛り上げたのは伝説のダンサーであるニジンスキーとパブロワです。

そのバレエリュスの経営者がディアギレフ。

 目次

 

 

ヴァーツラフ・ニジンスキーとは

Nijinski. Der Gott des Tanzes

ヴァーツラフ・ニジンスキーは20世紀の伝説的ダンサーで

バレエ・リュスというバレエ団とともに

「ペトリューシュカ」「春の祭典」「牧神の午後」

などを振付け高い跳躍力や技巧を盛り込み、”男性の迫力あるバレエ”のパイオニア的な人物です。

 

18歳でマリンスキー劇場の主役に抜擢

ウクライナのキエフで生まれたニジンスキーは10歳でバレエ学校に入学し、18歳でマリンスキー劇場の主役に抜擢されています。

そんなエリートだったニジンスキーの人生を大きく変えたのがセルゲイ・ディアギレフという人物。

セルゲイ・ディアギレフ

ディアギレフ―― 芸術に捧げた生涯

ディアギレフは元々作曲家を志しリムスキー=コルサコフに師事していましたが、師から作曲の才能の欠如を指摘され自らが芸術家になることを諦めて芸術プロデューサーになった人物。

 

パリで音楽の展覧会を企画し、ラフマニノフ自身にピアノ協奏曲第2番を演奏させたりボリス・ゴドゥノフの全幕上演を行い大成功を収めて

パリへロシアの芸術を発信する活動をしていました。

 

そしてディアギレフは

ロシアの重要な文化でフランスでは芸術としての地位が失われていたバレエをプロデュースすることにしまいました。

 

そこでニジンスキーや同じくマリンスキー劇場のアンナ・パブロワとともに

「韃靼人の踊り」や「レ・シルフィード」「クレオパトラ」をパリで上演し大成功を収め、フランス芸術界に衝撃を与えました。

 

韃靼人の踊り

 

レ・シルフィード

 

その後さらに

ラヴェルに「ダフニスとクロエ」

ストラヴィンスキーに「火の鳥」

リムスキー=コルサコフに「シェヘラザード」

の作曲を依頼しパリで上演、大成功を収めますが莫大な借金を負うことに。しかしそれは全部パトロンが解決!

 

バレエ・リュス

この2公演の成功を経てディアギレフはバレエ・リュスを旗揚げします。

上記のすべての作品を振り付けていたのはミハイル・フォーキンという振付家で、その後「薔薇の精」という作品も振付しニジンスキーが踊りました。

その中性的で妖艶な雰囲気、男性が妖精役ということや優雅ながら技巧的ということ、ニジンスキーの圧倒的な跳躍力や演技力などで大きな話題に。

薔薇の精

 

ピカソが美術 サティが音楽 ジャンコクトー脚本 Parade

 

まさに夢の共演ですが、ピカソが衣装や舞台装置のデザイン、エリック・サティが音楽、ジャン・コクトーが脚本というPradeという作品もあります。
ここからもわかるように、バレエ・リュスは当時の最先端の芸術家から支持されていたのです。
 

乗りに乗るバレエリュス

そしてココ・シャネルも協力を名乗りでたりと乗りに乗ったバレエリュスは次々と作品を発表します。

 

ストラヴィンスキー「プルネッラ」
 

 ストラヴィンスキー「ペトリューシュカ」

 

プーランク「雌鹿」
 

ニジンスキーの衝撃的な振り付け 牧神の午後

ディアギレフは今まで成功を収めてきた振付家のフォーキンに代わりニジンスキーに振り付けをさせることになりました。

コミニケーションがうまくできない上に音楽の知識が皆無だったニジンスキーは振付をするのも伝えるのも非常に難航したのだとか。

 

そんな中完成したのが、演奏会でもよく取り上げられるドビュッシー作曲の「牧神の午後」という作品。

ニジンスキーの振付家としての技量に関しては未知だったので大きな注目が集まりました。

そしてその振り付けは

最後に牧神が自慰行為をして終わる

という今までは考えられない振付け。初演は大混乱になったものの

「常識を打ち破った芸術!」

「下品すぎて話にならない」

 など様々な意見が飛び交い、結果的に大きな話題になり大盛況。

 

 

 

 

大混乱を招いた「春の祭典」

牧神の午後と並行して作られたのがストラヴィンスキー作曲の「春の祭典」今までの音楽にはなかった不協和音や変拍子の連続、そしてニジンスキーの奇抜な振り付け。

首を真横に傾けたまま内股で飛び回ったりと全てが革新的なものでした。

 描いている世界観も、時代も場所も不明の原始的な宗教の土地で村長に選ばれた娘が生贄にささげられるという話。

 

しかしこういった世界観は当時のパリの人々からはとても受け入れられず初演は大混乱になりました。

曲が始まると嘲笑の声が上がり始め賛成派と反対派の喧嘩や野次や足踏みなどで音楽がほとんど聞こえなってしまい、

ついにはニジンスキー自らが舞台袖から拍子を数えてダンサーたちに合図しなければならないほどだったそうです。

劇場オーナーが観客に対して「とにかく最後まで聴いて下さい」と叫んだそうです。

サン=サーンスは冒頭のファゴットのフレーズを聴いた段階で

「楽器の使い方を知らない者の曲は聞きたくない」といって席を立ったと伝えられています。(めちゃくちゃ高音域)

 

ストラヴィンスキーは自伝の中で

「不愉快極まる示威は次第に高くなり、やがて恐るべき喧騒に発展した」

と回顧しています。

 

それでも2回目以降はそんな騒ぎも起きず、イギリスやアメリカでも高い評価を受けたのだそうです。

 特に最後の生贄のシーンは圧巻です。

 

ニジンスキーとディアギレフの決別

ディアギレフは同性愛者で特にニジンスキーのことを愛していたらしいのですが

春の祭典の初演の後のディアギレフが同行しなかった南米ツアーの最中にハンガリーのバレリーナのロモラ・デ・プルスキと恋に落ち

 

ブエノスアイレスで電撃結婚してしまいました。

 

それを聞いたディアギレフは激怒して2人を解雇

 

ニジンスキーは自分でバレエ団を立ち上げますがそのような運営能力はなく破綻してしまいます。

 

第一次大戦の最中でハンガリーで拘留されていたニジンスキーをディアギレフが呼び戻し「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を振り付けますが、

このころから統合性失調症の症状が現れ始めてしまい、スイスへ療養にいきます。

 

これがディアギレフとの最後になってしまうのでした…。

 

そして療養先で「神との結婚」という舞台を上演、それはまるで狂気のようなそれでも素晴らしい踊りだったそうです。

そのまま神経衰弱に陥り、それから30年間精神病院をたらい回しにされた末

イギリスで亡くなりパリに埋葬されました。

 

神との結婚の公演直後から精神病院に入院するまでの6週間の間の自筆の手記があり、日本語訳もされ販売されています。↓

結婚がニジンスキーを狂わせた

ニジンスキーは結婚したことでこれまでの全てのキャリアを築いたディアギレフと別れることになってしまい、それから結果的に精神病になるまで追い詰められてしまいました。

ニジンスキーのファンは

 

あの女がニジンスキーを奪った!!

とみんな怒っていたそうです。

 

恋愛で大きく人生が変わるということはありますよね。

 

その後奥さんはニジンスキーが亡くなるまで献身的に介護したそうですが中々良くならなかったそうです…

 

こういう芸術家は発狂して自殺ということが多いですがニジンスキーが60歳まで生きていたのは意外ですね。

 

ニジンスキーの映像は残されていない

当時は当然映像技術はありましたが、ディアギレフの戦略で一切の映像を残さなかったのだそうです。

 

舞台の中央から幕まで飛び去った、飛んだまま降りてこないといった伝説は、映像があったらこれほど残されていないかもしれませんね。

 

観てみたかった… 写真からも充分に雰囲気が伝わります。

 

ディアギレフの死

ディアギレフは迷信や占いを信じるたちだったようで

「水辺で死ぬだろう」

と予言されてから船での海外遠征は行かなくなったようですが結局1929年に糖尿病が悪化して水の都ヴェネツィアで亡くなりました。

 

ディアギレフの死でバレエリュスは解散しましたが、ロシアのバレエをアメリカへ伝えた人やパリ・オペラ座で復活した人もいました。

https://www.instagram.com/p/BqC_c1bHft1/

 

ディアギレフの夢は

バレエを総合芸術にすること

 

いくら興行でうまくいっても、それをとってしまうことをせずに

ただただひたすらにもっと優れた芸術にするためにどんどんお金をかけました。

 

衣装も舞台装置も妥協せず、ピカソに頼んだり。

大成功を収めてもいつも借金を抱えるほどに一切の妥協なく芸術のためだけに生きる姿がココ・シャネルをはじめ多くのパトロンを惹きつけたのでしょう。

 

彼のおかげでストラビンスキーの作品群が今の世にあるわけですね。

 

ニジンスキーを描いたマンガ 牧神の午後 

アラベスクなどで有名な山岸涼子さんがニジンスキーの生涯を描いたマンガを出しています。

 

ディアギレフとのこと、ニジンスキーのキャラクターなど色んなことがわかりやすくまとまった作品だと思います。

興味を持った方はぜひ読んでみてください。