8/8 Ensemble Classica Zushiの指揮者、馬場武蔵さんにインタビューしました!逗子出身で湘南ユースオーケストラの先輩です。
ドイツでたくましく生きていた馬場さんの音楽半生は既にとてもドラマチック。
トロンボーンをはじめて留学するまでと、指揮者になった経緯を二回に分けてお送りします。
音楽を始めたきっかけ
■音楽を始めたきっかけを教えてください。
■馬場
幼稚園年長くらいのときに子供のためのグループレッスンに通ったのが最初です。
周りが女の子ばかりだったのですぐやめてしまいましたが(笑)
ほんの少しの間とはいえ、
「鍵盤のどれがドレミファソラシド」とか、
「おかあさんといっしょ」の「ドレミファどーなっつ」が、
「なんで『ソラシド(実音)』なのに『ドレミファ』って歌ってるんだろ。。。?」っていう疑問をもつくらいの音感(照)は、 この時期に自然と身につきました。
■嫌な子どもですね!
確かにドレミの歌の”ドー”が実音Cじゃないのに違和感を覚える人とかいるかも。
■馬場
それでも「僕は音楽、得意な人かも」というのはなーんとなくあって
小学校のころの委員会活動は「音楽委員」だったり、
授業の合奏で鍵盤をやったらちょっと複雑なパートを担当したりとその程度です。
浅野中学校(男子校)に入って、
さあ部活!という時に「そーいえば僕は、音楽得意な子なんだった」と思ったんでしょうね。
なんとも自然に吹奏楽部の体験入部に赴き、
特に楽器の希望も言わずに先輩に渡されたユーフォニアムを吹き始め、
それが最初から結構うまくいって先輩から
「こいつすげーぞ!!!」とチヤホヤされ笑
「お、僕これできるぞ!」と思った、という始め方でした(笑)
■馬場さんはジャズでもベルリンのビックバンドで演奏されていましたよね。
■馬場
浅野学園吹奏楽部には部員有志でやっているビッグバンド
「Melon Frappè Jazz Orchestra」があり
中学2年になったときにはトロンボーン部員が足りなくなったんですね。
それで「やってみようかな」となり、中学2年生からは両方吹いてます。
でも長いこと「あくまで軸はユーフォニアムで、トロンボーンはサイドでジャズのため(後々はオーケストラのため)にやっているだけ」という感じでしたね。
なんなら今でもユーフォニアムの方が気持ちよく吹けるかも笑
■僕がまだ中学一年の頃、高校生の馬場さんが”ヴェニスの謝肉祭”をユーフォで吹いていたのがすごく印象的です。すげー!と思いました。笑
【クラシック】色んな楽器の超絶技巧な曲を貼ってく【ヴィルトゥオーゾ】 - あうすどいちゅらんと
■馬場
よく覚えてるね(笑)
それから、一緒に吹奏楽部を始めた同級生でピアノがすっごく上手い子がいて、
部活の休憩時間のたびに”月光”や”幻想即興曲””木枯らし”なんかを弾いてて
それが僕には随分カッコよく映りました。
ピアノのレッスンなんて受けたこともないのにその友達から「木枯らし」の楽譜をコピーさせてもらって
家にある電子ピアノで、グチャグチャの指使いで(中指と親指だけ、みたいなw)コツコツコツコツ練習する
ということをやってました笑
そうやって僕は「その友達と仲良かったから」とか、「ベートーヴェンとかショパンの音楽に触ってみたかったから」という理由から、ピアノを触り始めました。
とっつきにくい”クラシック音楽”の聴き方をわかりやすく説明していく - あうすどいちゅらんと
今も僕は自分にためにピアノを弾くので、基本的には変わってませんね笑
そうやって浅野みたいな勉強の忙しい学校にいながら
僕の生活と頭の中身はだんだん音楽一色になってゆき
中学2年生最後くらいには「音楽で生きていこう(どーん)」と思っていました。
最初はユーフォニアム奏者になろうと思っていました。
湘南ユースオーケストラとの出会い
■僕と馬場さんが出会ったのは湘南ユースオーケストラでしたね。どんなきっかけで入団したんですか?
■馬場
中学1年の秋、母がたまたま雑誌の懸賞で当てたオーケストラコンサートを聴きにいったんですね。
それがイェーテボリ交響楽団/ネーメ•ヤルヴィ指揮のマーラー「巨人」でした。
それが僕にとっては結構衝撃だったようで「あーゆーこと、やってみたい」と。
もうトロンボーンは始めていたんですが、トロンボーンに注目するでなく、とにかく「オーケストラってすごい!!!」と思いました。
そんなことで、浅野の先輩が逗子の青少年オーケストラで吹いていることを思い出し、中3の春に学校のトロンボーンを持って見学に行きました。
それが湘南ユースオーケストラです。
今でも覚えてます、久木小学校の多目的室、見学にいって吹かせてもらって。
「魔弾の射手」序曲の最初の「どーー<<<<<」が鳴りだしたとき、
うおおおおおおお、これはすげえ!と笑
■馬場さんが初めて指揮をしたのも確かユースですよね?詳しくお願いします。
■馬場
そうです。初めて指揮をしたのも湘南ユースオーケストラでした。
恒例夏合宿の中で「指揮者大会」というものをして
僕は恥ずかしくて「やりたい」と手をあげられなかったんですが、
前澤均先生に
「おいおい、ムサシくんはやらなくていいの?」と呼ばれ、
「新世界」の1楽章を通しで!
最高の気分でしたね笑
「え!僕指揮者になりたい!」と。
しかしその夢はすぐに崩れ去ります(後述)。
中3で入団してからドイツに行くまでずっと
中学/高校/浪人/大学/第二浪人
全時代を通してずっとかわらずココが一番たのしい音楽の場でした。
また、どんな形であっても僕の人生はどこまでいっても「オーケストラ」という分野と関わっていくだろうと思った理由でもあります。
ユースのホームページ↓
■馬場さんって高校生くらいの頃オケも吹奏楽もジャズも色々やってましたよね。
■馬場
確かに笑 僕はその高校生ぐらいの時期
誰かと一緒に音楽をすることしか考えてなくて(今もかw)
当時自分ができたユーフォ/トロンボーン/ピアノを駆使して
ありとあらゆる場所に顔をだしてましたね。
■人と人とをつなぐ馬場って言ってましたもんね笑
■馬場
中でも重要なのは
長く団員していまでも良く遊びにいく吹奏楽団ブラスカスミッシモ!
そこでの先輩に連れられて別の吹奏楽団にお手伝い演奏いったり
ほかにも叔父が教えているゴスペルクワイヤーでの練習伴奏ピアノ
本番は中に入って一緒に歌ったり。
叔父は音楽事務所を経営してるんですが(Joy Music Planning)、
ジョイ ミュージック プランニング:学校公演・芸術鑑賞会・アーティストの斡旋・イベントの事なら!
そこに出入りするアーティストの皆様にも随分可愛がっていただきました。
なかでもピアノの故•橋本麻里子さんは僕にジャズの基礎を教えてくれましたねぇ。。。
叔父の家でリハーサルがあるたび
ユーフォとかトロンボーンを持っていっては1曲セッション(レッスンともいう)してもらう、
という感じのお付き合いをさせてもらってました。
桐朋学園大学へ進学
■音大進学はどのように考えていたのですか?
■馬場
最終的には「オーケストラをやりたい」ために音楽大学をトロンボーンで受験することに。
でも僕は東京芸術大学に行けるほどのトロンボーンの実力は(頑張ってみたものの)本当になかったので、桐朋学園大学に行きました。
その理由もひとえに
・学生オーケストラの充実
・神谷敏先生(元NHK交響楽団)
でした。
結果として僕は大変幸運な学生オーケストラのプロジェクトを いくつも吹かせてもらったのと、
そのあとの人生で重要になる先生/友人にたくさん出会うことができました。
総じて桐朋の先生方には
「将来的に、どこにいっても『どうやって勉強/研究を続けていくのか』を自分で見つける力」
を教わった気がしてます。
アジアユースオーケストラが留学のきっかけに
■ドイツでもよくアジアユースオーケストラの友達と会っていますよね。詳しく教えてください。
■馬場
桐朋2年生の3月に受けたオーディションで選ばれて
2010年7-8月のアジアユースオーケストラの演奏旅行に参加したのが決定的な転機になりました。
当時「今後トロンボーン続けていって、モノになるのだろうか」と悩んでいた時期だったのですが
ここでの6週間で全部吹っ飛んでしまいましたね。
アジアユースオーケストラというのは
1990年から始まった夏のオーケストラ講習会です。
アジア各国でオーディションがあり
選ばれたメンバーが7月に香港に集合して
3週間リハーサルキャンプ
3週間コンサートツアー(毎年15-16公演くらい)するというものです。
↓
指揮者はリチャード•パンチャス(アメリカ)とジェームズ•ジャッド(イギリス人)
各楽器の講師陣もほとんどがアメリカのオケマン
当然リハーサルは全部英語。
初めての経験でしたが
「人間、必要にせまられたら、どうにかしてコミュニケーションをとることができるのだ」ということを体得しました(笑)
■それで馬場さんは英語も得意なんですね~。ドイツ語の上達も周りと比べてはやく見えました。
■馬場
そして団員たちは自分と同世代の音大生/音高生。
彼らと喋っていてよく話になるのは将来の話。
「Baba-sanはどこの国にいくの?オーケストラやるならドイツだよな」
そうなんです。彼らにとっては
「音楽学部を卒業して、大学院はヨーロッパ/アメリカに行く」というのが当然のことだったんです。
それで思いました、「あ、そっか、その手があったか!」と。
そんな感じで夢をかたりながら
マーラー5番を8回、シュトラウス•プログラムを8回アジア中で演奏して
最終日には泣きながらみんなに再会を誓いました。
帰ってくるころには「絶対オーケストラに入る!(どーん)」というつもりになっており
そのためにはオーケストラ王国ドイツだ、となっていました。
※その後2011年(ラフマニノフ2番、チャイコフスキー4番ほか)、2012年(マーラー9番、「幻想交響曲」と「海」)と、合計3年間いました。
2012年アジアユースオーケストラ
ハンス・アイスラー・ベルリン音楽大学へ進学
■アジアユースがきっかけとなってドイツ留学ということになったんですね。ベルリン音大に留学した経緯を教えてください。
■馬場
トロンボーンでドイツのオーケストラに入る勉強をする、というときにすぐ頭に浮かんだのが
クリストハルト•ゲスリング先生(ベルリンフィルハーモニー管弦楽団首席奏者/ハンスアイスラー音楽大学教授)でした。
オーケストラの中のトロンボーンレパートリーを勉強し始めてる時期にマーラー3番をいっぱい聴いてて
「こういう風に吹きたい!!!」と思ったのがゲスリング先生だったんですね。
それでまだ知り合ってない時期に
「習いたいんですが…」と学校のホームページに載っているアドレスにメールを差し上げたら
「10 月の末から 11 月頭にベルリンにいるから、そのにきたらレッスンできるよ」
と返事をもらい、それで初めてベルリンにいきました。
・ヘンデルのオーボエ協奏曲(ラフォッズ版)
・ダヴィッドの小協奏曲
・オーケストラスタディ
をいくつか聴いてもらい
「”モーツァルトのレクイエム”吹ける? じゃー”ローエングリン”は? ”ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら”とかもいける? 」
みたいな感じで
ちょっとマーラー3番吹いてみ
っていうことがあったんです。
そこで先生がちょっと吹いてくれたお手本で
「これだ!この人にならいたい!!!」と思って(笑)
でも先生本人と同時に僕のなかですっごく大きかったのは
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の存在ですね。
到着した翌日にすぐ演奏会にいきました。
もう立ち見席まで全部売り切れてたんだけど
フィルハーモニーの前で粘って粘って、「奥さんが体調わるくてこれなくなった」という紳士にチケットを譲って頂き、
サー•サイモン•ラトル指揮でマーラー「復活」を聴いて、それはもう立ち上がれなくなるほどの衝撃でした。
そういうわけで年明けにハンスアイスラー音大(ベルリン音大)のトロンボーン科入試を受けて合格。
すぐドイツ学生生活が始まりました。2011年4月入学です。
■(「受験のムサシの演奏は本当に神がかっていた」とベルリンの人達は言っていました)
ベルリンに住み始めてからはもう
徒歩圏内でベルリンフィルが聴けるのが嬉しくて嬉しくて、
練習と学校のほかはひたすらフィルハーモニーに入り浸っていまして
可能な限りの演奏会(とリハーサル/ゲスリング先生が中に入れてくれてた)に通っていました。
住み始めた時期はちょうどマーラーの交響曲チクルスをやっていたころで
同じプログラム3回の演奏会に3回ともいたので、
毎日フィルハーモニーにいる様子をクラスメイトに目撃され
「お前、ひょっとして住む所ないのか?w」
と言われる始末(笑)
1)今週ゲスリング先生がベルリンフィルで吹くプログラムのパート譜を練習してレッスンに持っていく(できれば一緒に吹く)。
2)ベルリンフィルのリハーサル/演奏会に通って、先生が実際にオケの中でどう吹いているかを研究する。
できれば同じプログラムを2回以上聴いて
ホールの一番後ろ(立ち見席)、
ポディウム席(合唱が座るとこ)の両方で聴いて
・実際どう吹いてるか
・遠くではどう聴こえてるか
を観察。
3)この指揮者/プログラムが良かったか悪かったか、先生と議論。
そんなことばかりをしていました。
学生時代最後のころ、僕がベルリン交響楽団日本ツアー(2014年)に連れていってもらったり
ブランデンブルク州立管弦楽団でユーフォニアムで重要なプログラム
(「惑星」「英雄の生涯」など)を吹かせてもらったりしていた時期には
それらのプログラムをレッスンに持っていく、という感じで「仕事の大大大先輩」みたいな感じでした。
馬場武蔵さんホームページ↓
指揮者編へ続く。
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